ガランとした街、その中に立ちはだかる巨大なショッピングモール、シャッターを下ろす商店街、夜な夜な街を徘徊する若者達、うるさい原付の走行音。監督・森岡龍にとってそれが育った街のすべてだった。
1988年生まれ、東京都出身、千葉県浦安市育ち。『茶の味』(‘06/石井克人)で俳優デビュー。その後も『あぜ道のダンディ』(’11/石井裕也)、『見えないほどの遠くの空に』(’11/榎本憲男)、『色即ぜねれいしょん』(’09/田口トモロヲ)など、数多くの作品に俳優として出演する一方、映画監督として作品を発表し続ける森岡龍の最新長編作にして初の劇場公開作品。多摩美術大学の卒業制作であるこの作品は、第33回ぴあフィルムフェスティバルにてホリプロ・エンタテイメント賞を受賞し、自主制作としては群を抜いた質の高さと、「青春映画」としての意義を強く感じる瑞々しさが高く評価された。しかし彼はそんな評価をよそに、じれったさや歯がゆさがつきまとう思春期の自分と、その仲間達、育った街から卒業しようと決意した。この作品はいわば彼にとって、青春時代との決別の儀式なのだ。
千葉県浦安市のとある街。下町と、新興住宅が立ち並ぶニュータウンを川が分断している。
カズカズこと、高校3年生の島村和秀は映画監督を目指して、8ミリカメラで作品にするでもないのに、街を撮り続けている。同級生でスナック「霊界」の息子・嶺 豪一と、2コ上の無職の先輩・飯田とは、いつも同じ公園でなんとはなくたむろする日々。公園の前を通る女性・富永さんが気になってはいるけれど、ただ遠くから眺めているだけ。
そんなある日、富永さんがストーカーの被害に遭っているということを知り3人はストーカー退治を請け負うことに。退屈な日々に生まれた刺激、浮足立つ3人。盛り上がるままに行動する3人はもちろん勘違いしたり、失敗したり。でも、それが楽しい。いつもの3人だから。だが、結局は3人が離れ離れとなるきっかけとなってしまうのだ。かけがえのない人や場所と別れて、ちょっとだけ「僕たち」は大人になっていく・・・。
1988年、東京都出身。千葉県浦安市で青春時代を過ごす。多摩美術大学造形表現学部映像演劇学科卒業。2008年に『つつましき生活』で第 30 回ぴあフィルムフェスティバル(以降PFFと表記)に初入選。2010年の第32回PFFでは『硬い恋人』が入選。以降、コンスタントに作品を発表。
俳優としては2004年に石井克人監督作品『茶の味』でデビュー。以降、『色即ぜねれいしょん』(’09/田口トモロヲ)、『あぜ道のダンディ』(’11/石井裕也)など数々の商業映画、ドラマ「深夜食堂・2」(TBS/山下敦弘)「シャレードがいっぱい」(CX/石井克人)ほかに出演。主演作として『君と歩こう』(’05年/石井裕也)、『見えないほどの遠くの空に』(’11/榎本憲男)がある。公開待機作として『舟を編む』(‘13年/石井裕也)、ドラマ「ゴーイングマイホーム」(KTV/是枝裕和)。またJTのCMシリーズでは長男役を演じている。
今作品は初の劇場公開作品である。
ジュリ~!! ショーケ~ン!! 欽ちゃ~ん!!
と叫ぶのも青春だと、かつて吉田拓郎さんは歌いました。
『青春の詩』であります。
2010年夏、僕はこの曲を聴きながらシナリオを書きました。
恥ずかしげもなく「青春」というワードが24回も出てくるこの歌を聴いていたら、
いつのまにかタイトルが「ニュータウンの青春」になっておりました。
いや、そんなどーでもいい話は置いといて、
僕は常々、迫真の映画に触れたいと思っておりますし、そんなものが創れたら、と思っております。
それはジャンルではなく、何か人生の真理に到達するような映画です。
映画を観た人の人生が豊かになるような、世界の見方が変わるような、そんな映画。
この映画がお客さんにそのような体験を保たらすことができるかどうか保障はありませんが、
僕なりに「青春の真理」というものを追求してみました。
ジュリーもショーケンも欽ちゃんも出てこないんですが、ご覧頂ければ幸いです。
主演3人の輝きはきっと彼らにも負けていないはずです、いやマジで。
森岡龍
1987年東京都出身。多摩美術大学映像演劇学科卒業。監督、森岡の同級生であり、森岡作品に欠かせない俳優である。劇作家・俳人としての活動もしており、俳句集「電話を切るのが下手な人」(MESS)がある。
1987年東京都出身。多摩美術大学映像演劇学科卒業。主な出演作は『東京プレイボーイクラブ』(’11/奥田庸介)、「くろねこルーシー」(TVK)、ほか。
1989年熊本県出身。多摩美術大学映像演劇学科卒業。自ら主演・監督を務めた『故郷の詩』(’12)が東京学生映画祭でグランプリ、観客賞を受賞し第34回PFFにて審査員特別賞を受賞。監督作の『よもすがら』(’11)とともに第31回バンクーバー国際映画祭に正式招待として上映が決定した。
この映画は“不安”と、“バカ”と、“ちょっぴり切ない“三人組のドラマ。
その三要素が組み合わさった時に生まれる物が“青春”とゆーやつだ。
監督はそれを実にナイーヴ&ドキュメンタリータッチで描き、
見る者を優しい気持ちにさせてくれる。
─みうらじゅん
日本のどこにでもありそうなニュータウンで生まれ育った冴えない男子達。
それでも青春という奴は、ほろ苦く甘酸っぱい、そして特別な季節なのだ。
仲間とバカを言って笑い転げた日々がどんなにキラキラしていたか、
大人になってから分かるものなんですね、森岡カントク!
笑って笑って、そして胸がキュンとなっちゃいました。
─南果歩
この映画は正しく森岡映画だ。
誰が監督したか聞かなくてもわかる。
映画監督森岡龍の映画だ。
痒い痒い青春。
龍くんのあの笑顔が頭に浮かぶ。
─染谷将太
芸人Xで出演する筈が、風邪で病欠した田口です。
森岡龍監督は豊かさと退屈さが埋め立てられた青春群像をひとつも気負ったところなく見事に活写した!
等身大の出演者達はみんな映像に映る喜びに溢れていて、実に魅力的だ。
俳優でもある監督の穏やかな目線の適確さを感じます。
キレイごとのない、甘さ控え目でちょっぴりビターな“純”な青春映画の誕生です!
─田口トモロヲ
『ニュータウンの青春』はマーティンスコセッシ監督のフィルモグラフィに例えると『ミーンストリート』辺りの匂いがしました。なので森岡くんに次回作は『アリスの恋』みたいな映画を期待しつつ、いつかあのニュータウンに戻り『グッドフェローズ』を作ってもらいたいです。
─山下敦弘
ナメてかかっていた。21世紀青春映画の最高峰がこんなタイミングで、こんなところから、ヒョイと飛び出すのだから、日本映画はまだまだ捨てたもんじゃない。森岡龍すげえ。でも役者も辞めないでほしい。
─ケラリーノ・サンドロヴィッチ
森岡君の映画、好きです!
ずっとスクリーンで観たかった!!!
─成海璃子
価値観の多様化と情報過多社会が進み、“大きな物語”とヒーロー像の定型が崩れて、従来の青春映画が成立しづらくなったと言われる昨今。そうした状況下で、それでも有効な物語を描くことで“青春物語”を再定義し、インディペンデント映画に新たな座標軸を引いたのが『ニュータウンの青春』だ。
物語は、平均的な男子高校生三人組が、ひょんなことからニュータウンに住む憧れの女性、富永さんからストーカー被害の悩みを打ち明けられて、にわか自警団を結成するものの、犯人を捕まえるどころか、空振りと失敗ばかりで、三人三様の“駄目な男子っぷり”を惜しみなく見せる青春コメディとして展開する。憧れの女性、将来への不安、何者でもない自分への焦燥感からくる怒りと衝動、童貞、男友だちとの愚行、、、、これまでの青春映画の定番キーワードが幾つも出てくるなか、決定的にこれまでの作品と一線を画すのは、「故郷」と「居場所」を喪失した世代に生きる若者の肖像と、その社会環境をきっちりと描いた上で、かすかに光る希望を浮き彫りにさせ、エンターテイメントを超える作品へと昇華させている点だ。
ここで重要なキーとなるのが、舞台となる千葉県・浦安市のニュータウンという、特殊な舞台背景にある。高度成長期が遺した巨大なモニュメントである高層マンションは、山や川や下町など周囲の環境から遮断する無機質な城壁のようにそびえ、ある種の閉塞感が漂っている。しかし、マンションの目の前には、粗大ごみが不法投棄されている道路や、昔懐かしい下町文化が残る地域とつながる橋があるほか、謎の“ホワイトマン”という「異質な他者」の存在もなんとなく許容される牧歌的な空気が残っており、そう絶望的な状況ではないことがわかる。東京という大都市から少し離れた郊外という地理的条件もあいまって、良くも悪くも、めまぐるしい時代の流れや大都市の世知辛さからは取り残された、適度に雑多でのんびりした環境が広がっている。ただ、ふいに流れる光化学スモッグ警報のアナウンスが、可視化できないほどに問題が複雑化した現代社会と、その不安感を象徴する。
森岡監督自身が投影されていると思われる主人公の島村を中心とする三人組は、こうした地理的条件下だからこそ出会った。そして、これまでの映画なら、主役よりむしろ脇役のキャラクターである彼らの何の変哲もない放課後は、この特殊な空間が生んだユートピアだった。映画監督志望の島村はニュータウン側の住人だが、中学校時代に同じ野球部だった同級生である居酒屋の息子の豪一と、ちょっと変わり者の飯田先輩という下町側の二人とよくつるみ、自転車で二つの異なる地区を行き来しながら、残り少ない高校生活を過ごしている。ここで、決して説明台詞などで物語ることなく、無数のエピソードを編み上げることにより、キャラクターの魅力を浮き彫りにさせながらストーリーを展開する手法は、見事としか言いようがない。思わずくすくす笑ってしまうエピソードや、味わい深いカットの多さが、この作品の最大の魅力となり、あの三人が本当に実在していたとしか思えない、きらきらしたリアリティを裏打ちしている。それは楽しさだけではなく、ある日、彼らのお遊びがエスカレートして悪意なき犯罪行為に一転してしまった際の、どうしようもなく後味の悪い感触ですら、「そうだった、青春時代って、愚かで痛くて恥ずかしくってたまらない“失敗の時代”だった」と、思わず自分自身の過去を思い出しそうになるほどにリアルだ。
しかし、三人が玩具で賭けをする冒頭シーンが示唆するように、彼らは同じ場所にいながらも、次第にそれぞれの道を歩き始める。その過程で生じたすれ違いから、多少の小競り合いはあるものの、彼らは決して激しくぶつかりあったり、喧嘩をして、お互いを変えようとは試みない。ただ、互いの存在や意思や進む道を、静かに受け止めるだけだ。それは一見、“ニュータウン的”な希薄な人間関係のようにも見えるが、そうではないことが、いくつかの美しいシーンでわかる。いつもは頼りない飯田先輩が身を挺して後輩を守る場面や、島村と豪一が二人乗りの原付で夜の商店街を疾走する場面は、その友情関係が、純度高く凝縮された日本映画史上に残るシーンとなっている。また、映画『バックドラフト』の名台詞「You go, We go.」を、台詞なしで彷彿とさせる圧巻のラストでは、飯田先輩の背中に、ただただ胸を打たれる。だって、性格も家庭環境もばらばらの三人が一緒にいる理由は、仕事や崇高なミッションからじゃない。何の損得もなく、ただ互いの素質に魅かれ気が合うから、ただ、それだけだからだ。そこには、彼らにしか見えない何かが確かにあるとわかる。そして、そんなふうに人が無邪気でいられる時期は、多分、とても短い。
すべてを同列に捉えるキャメラの距離感や時間軸は、街も人も景色も、そこで起こる悲喜劇も、あっという間にその痕跡さえ消し去ってしまう残酷さをも、淡々と映している。下町情緒が残っていたニュータウンも、物語の終盤では既に新世代が移り住み、その空気感はまるで違ったものに様変わりし、新しい物語が始まろうとしている。そう、高度成長期には“サラリーマンの夢”と呼ばれたニュータウンも、「青春」や「学校」と同様、入り口と出口という通過点のブラックボックスでしかない。そして、そんなニュータウン世代に育った私たちは、グローバル化とともに、自己のルーツも、故郷という居場所をも物理的に喪失していることに、いまさらながら気づかされ、途方に暮れる。
けれど、人は誰でも、前に進み続けるために、過去に立ち返らなくてはならない時が、人生に一度は、きっとやってくる。その時、やみくもに過去に遡って迷子になってしまわないように、この作品は、帰るべき場所に、記念碑のような小さな付箋を残す。
それが、この作品を、単なる青春時代の回顧物語にとどまらせずに、観る者の背中を現実へと押し返し、それぞれの“ホームタウン”の記憶と居場所を、改めて確認させる。
やはり「青春映画が成立しづらい」と言われる時代だからこそ、なお私たちは、“青春映画”を必要としていくのだろう。最後に島村が、8ミリカメラを客席側に向け、その姿と対峙するラストシーンで、その事実に改めて気づかされるのだ。